昭和54年07月23日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってからじぶんのよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両にの金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
神の言う事を聞かぬ、言う事を聞くぬから罰をあてると言う様な神様ではないけれども、神の言う事を聞かねば、御神徳が受けられんと言う事です。神の言う事を聞かんでもおかげは受けてますよね皆んなが。新たな命が助かったり、開けない道が開けたり、人間の知恵やら力ではどうにでも出来ないことが信心によって神様にお取次ぎ頂き、お願いをしておかげを受けておりますけれども、有り難く頂いて帰ればおかげは船にも車に積めぬほどの神徳があると仰せられる、神徳は受けられません。
船にも車にも積めぬほどの神徳を受けて初めて人間の幸せ、いうならあの世この世を通しての幸せ、神様の願いがここにあり、私共の願いもまたそこに置かれる信心でなからなければ、信心は成長しませんね。
神様がどうぞ信心しておかげを受けてくれよというのは、御神徳を受けて、あの世この世を通して助かる事のできれる、そういうおかげを受けてくれよと言う事である。なかなか目先のおかげを頂く事だけに終始して、神様のいうことを聞かんでもが受けておるから、それでもしその人の信心が終わったとするならば、これは本当に神様としても悲しい事、私共としてもこんなに、まぁ馬鹿らしい話はない。
信心はどこまでも、有り難く頂いて帰れば船にも車にも積まぬほどの神徳があると仰せられる、それを受ける事が信心なんです、もう金光様の信心は私はそうだと思うです。ところが神の言う事が道に落としてしまい、そしておかげが受けられなかったの受けたのというて、神様に不足を不平を言うたり思うたりする様な氏子がある。神様のいうことを聞いて、御神徳を受けて。それこそ神様も喜んで下さる、お取次ぎをして下さる金光大神も喜んでくださる。
私共は尚更の喜びというおかげ、そのためには神の言う事を聞かにゃいけん。その神様のいうて下さることも、そんなに火の行をせろのなら水の行せろのと、さぁ断食行と言った様な難しい事は言われんのが金光様の御信心だと思うです。だからその気になれば誰でも頂けれる、その気になれば誰でも実行で切れる事なんです。その気にならんとこにおかげだけ終わり果ててしまう訳になるのです。
昨日一時の御祈念を終わらせて頂きまして、秋永先生をま先頭に、この関係の方達だけで今度のご建築が出来ます、炊事場の方の見学にやらせて頂きました。中村短大の寮を見せてもらいましたが、もう本当にまぁきっちりしたことであり見事なことでございましたが、恐らくまぁあの様なものが合楽に出来る訳でございましょう、結局女の大学ですから女の寮です。だからまぁ女らしいいろんな心使いが一杯してございますが、一つ私は大変厳しいものに触れて来た様な気がするんです。
炊事場そして、食堂そこへ大きく罰則というのがあります。五ヶ条か六ヶ条かずうっこう罰則と言うのがね、まぁ一班なら班別なら班別に分かれてある、一人朝遅れて出てきたら、その班のものが全部、そのこういことをしなければならない、あいうことをしなければならない、例えば便所の掃除をしなければならないとかね、そのどこどこを受け持たなければならならないというのがあるんです。
大変厳しいんです、一人が例えば朝あのう無断であのう休んだらね、その班全体のものが罰を受けなければならない、そのそういう厳しい罰則が、こう何ヶ条かずうっと書いてございました。女の寮にはちょっと似つかわしい様な感じがしました。それをどうでも大学校へ行って大学の勉強をしたい、そしてその寮に入って、そのうまぁ生活をする訳ですから、そのためにはそういう、いうならば厳しい一つの掟というものがあって、その掟に従わないと、もう大学もいうならば行けない。
私は本当に思いますのにね、信心もねそれ他の宗教では罰と言う事がありますよね、天罰とかね神罰というのがあります。もうキリスト教なんかにはそれこそその罰というのがある、又は仏教なんかでも仏罰特にあのう創価学会なんかは、そのうあたいが言う事を聞かんと仏罰が当たると言う様な事を平気で言われる。だからまぁそういう世界には仏罰というのがあるかも知れないけれども、金光大神の信心にはそういうものはない。
ある時四神様にそう言う様な事をお伺いさせて頂いたら、四神様仰せられた。この神様はね罰を当てる暇があるならおかげをやるわいと仰ったそうです、罰を当てる暇なんかないと仰る。そりゃ氏子可愛いの一念だけの神様、というてなら神様のいうことを聞かんでもおかげは受けられても、神様のいうことを聞かず左にし途中で落としてしまうならばです、いうならば車にも船にも積めぬほどの神徳が受けられない、その神徳を頂いてこそ初めて人間の言うなら幸せということになるのです。
しかもあの世にまでも持ってゆけ、この世にも残しておける、こんな結構な話ないじゃない、だから私共がね心機一転、本気で御神徳を頂くことのための信心をさせてもらわにゃん為には、言うなら神の言うとおりとまではいかんでも、神様に頂いたことこれだけはと言った様なものが、私は守りぬかにゃいかん、続けにゃいかん。頂きとおさなければ頂けんです。
私共がどうしてもおかげに幻惑されますですね、病気の人は早う楽になりたいようなりたい、お金がない人は早うお金に不自由せんごつなりたい。もうそのことの願いの為だけに一生懸命、だからそれに一生懸命になることはいいけれども、そう一生懸命に思うならば、神の言う事にも、その言われるその事を守らせて頂く事にも一生懸命になりゃいいのだけれども、いわばお道の信心では罰則というのがないもんだからね。罰というものがないもんだから、人間と言うものはなかなか。
あぁいう厳しい罰でもあったら、あのういうこと聞くかもしれませんけれどもね、その辺のところが神様としても痛し痒し、もう本当に無念残念と言われる所じゃないだろうかと思う。せっかく御縁も頂いた、はぁこの氏子が信心によって徳を受けくれて幸せになってくれる、それこそ子にも孫にも伝えて行けれる、自分はあちらへ魂の世界へ入っていく時でも、喜びの御霊安心の御霊として、立ち行くおかげの頂けれるほどしのものを、頂けれる手立てを教えてやるのにその教えを守ろうとしない。
やっぱり我情で一杯、我欲で一杯と言う様な事ではおかげにならん、それこそ原因がどういうところにあるだろうかと私は思うのです。神様にお願いせんでもやって行けるというものがあるからじゃないでしょうか、そういえば信心はなくてもやっぱり結構やっていってる人はやって行っておる。神様は信心はなくてもおかげはやってあると仰る、そのおかげを頂いておるだけれども、おかげをおかげとも気付かない感じないのです、信心のない人達は、御信心があってもです。
ならやっぱりここはお願いせんで自分でやれるというようなものがあるから、自分で自分の思い自分の考えで、いうならば平気で我が侭をしたり、する事になるのじゃないでしょうか、言う事を聞かんということになるじゃないでしょうか。そこでなら信心によって何を先ず分からなければならないかと言うとです、昨日の昼のミニ御理解じゃないですけれども、障子一重がままならぬ人の身ぞと仰せられる、これを本当に分かる事だと思うですね、信心のお徳を受けて行くための根本はこれです。
人間が何が出来るか、自分でやってみようと、例えば中風なら中風の出とる人に、これば一つ持ってみれと言われても持てないでしょうが。はぁここまで走って来て御覧と言うたっちゃ、走られんでしょうがヨロヨロしとって。神様のおかげを頂かなければこれ一つが持てんのであり、走る事も出来んのある歩くことすりゃもでけんのある。見ると言う聞くというけれどもです、その見る聞く事ですら神様の許しを頂きおかげを頂かなければ、見る事聞く事すらも出来んのだと言う。
私はいわゆる障子一重がままならぬ人の身であるという、一つの大愚に至らなければならない、その大きな悟りが開けなければ行けない。そこからです貴方のおかげを頂くよりほかに手はないと分からせてもろうて、神様のいうこと聞くよりほかに手はないのだと。私はそう思います。神様のおかげを頂かなければ出来んのですけれども、自分で出来るかのような思い違いをしておるからであります。
昨日のミニ御理解を読んで見ましょうかね、「神の経綸は一分一厘違わない、その中に生かされてある私共と分かれば、その働きに素直に合流生き方を体得する以外に、真の道も人の幸せもありえない」とあります。神様の経綸いうなら、神様のお働きと言うものはね、もう一文一厘間違いなく起こっておるんだ、だからそう言う事が分からせて頂いたらね、そういう神様のお働きの中に生かされて生きておると言う事実が分かったら、私共はそういう働きに素直に、その神様の働きに沿い奉らなければ。
十全にならなければ、神様の働きに私共が合流しなければ、人間の幸せ真の道も分からん、真の真の幸せというものも有り得ないんだとあるんです。障子一重がままならぬ人の身であると。神様のおかげを頂かなければならん。そのなら神様のおかげを十全に頂かせて頂こうと思ったら、いわゆる神様任せの生き方、生活と言うものがなさらなければならない、それを合楽ではどういう風に説くかと言うと、次の歌に二首の中にあります。「障子一重がままならぬ人の身なれど 吾神と共にありけり印ぞによると」ね。
私共が、ならここで成り行きを大事にするとか尊ぶとかとこういう、その成り行きそのものが神様の働きなのだというて、不平を言わず不足を言わず、それを有り難く押し頂く心で頂いていくと言う事が、神様の働きに合流する事なんだ。そういう生き方をしなければ間違いないなのに依り食いをする、これは自分の都合が良いから頂くけれども、都合の悪い事は向こうに押し合ってしまうと、と言う様な事してんでは何時までも合流は出来ないと言う事ですね。
その次に「成り行きを尊びうける生き方を学びて永久の命とぞせん」とこうある、私共が今何を合楽で一番勉強しなければならないかと言うと、成り行きを尊ぶしかも有り難く受けると言う事、合掌して受けると言う生き方を学んで、永久に永遠にあの世を通しての命、永遠の命とぞせんというのです。私は合楽の場合はここんところをいうことを、他のことはでけんでもね、こういうことだけは一つ徹底して、私共が神の言う事を聞くと言うことになる時にです。
初めてね印ぞ見えると神様と共にあるというその印が見えてくる、なるほど神様の働きだなぁというその事を私共が感ずる。昨日は実は私共は福岡へ行くはずじゃなかった、ところが長崎から、神港から踊りの師匠をしておられる方が参って見えられた、長崎からそのもう一人上のお師匠さんが見える、昨日一昨日、親子三人でお参りして見えて、今度是非先生こう言う様な私共ので、このう踊りの会がございます、そして東京から、東京歌舞伎の松本松六が松六さんが見えます。
だから是非御覧頂きたいとこう言う事であった。そしたら昨日そのう先ず見学にやらせて頂くことを頂いたから、あぁそんなら私共は今日昼から、あのう明日御祈念が済んだ後で行く事になってるから、ならそちらへ回らせて頂こうかと、それであの三人だけ切符を用意しますから席も取っときますからということであった。それだけん一時の御祈念も済んで、ところが段々時間が遅れて、後私でならんと人達が参ってみえるもんですから、時間が少し遅れた。
そこへ丁度杉さんの所のお孫さんの初参りがあった、それで私はあの赤ん坊を御神前にいつもお供えして、お礼を申し上げて、またこの子の一生のことをお願いすると、神様から何かとそのお知らせを頂きますから、その事を伝えるんですけれども、昨日それを頂かんのです、だから私が心がこう慌てとるから神様がさわりなさるかと思わせて頂いたら、あのうこのラッキーと言う事を頂いたね、幸せと言う事でしょう、のそのしるしがね、例えばお前が出ようとする時に間に合うたじゃないかと神様は仰った。
これだけでもラッキーではないかと、神様が受けお前がしてきた事を受けて下さる印がここに見えるじゃないかと、だからこの子はそれだけでもラッキーだと、これからこの子の両親達が本気で信心する事になれば、いよいよおかげを頂くだろうというて、御心眼にね、あのうあれはなんちゅう、ほら貝ですね、ぼうふんげという、ほら貝を吹くところを頂いた、ほら貝というものを私は吹いたことはないけれども、ただ普通でふうっと吹いたからというてなるもんじゃないらしいですね。
やっぱり一生懸命の力を込めて、やっぱり要領が分からんと鳴らない様に、信心もそうです、ただもう初参りをしてお願いしとるけんでと言う事じゃいかん、それでいつか何かの時にです、一生懸命ならんならん事が両親出来るだろうと、その時にほら貝がなる様なと、いうなら信心の有り難さが分かるだろう、この子はそういう意味において、いうならば初参りの時には、あぁいう神様が待っとったと言わんばっかりのラッキーであった。だからその後もいよいよおかげを頂く為に、さぁもうしろと仰らん。
何かそこに一心ならなければならない時にです、神様こう頂き信心を頂いていけば、いわゆるこの子だけではない、一切が幸せになっているだろうと言う事を頂いて、ははぁ遅くなったのも時間が遅れたのも、この子の為に神様がおかげ下さったんだなぁと思うて出かけよった。出かけよった向こうにこうやって広島から参ってきてる、それもさっちこれだけはお伺いして帰えらにゃんと言う事だったから。もし私がほんに今出られたというす具合になっとったらね、私が帰って来るまで待っとかんならん様な用件であった。
あのう手洗いの前で用件を聞かせて頂いて、そしてそれは右かより左がよいよとと言う事を、まぁ教えて差し上げたんですけれども、そういう素晴らしいタイミングの中にやらせて頂いたら、だいたい目的でいかなければならん、道を間違えた田中先生が、違う所をいっとると、それが私共にはとっても素晴らしい所だった、それがね、そしてその驚きでその電気ホールというところである訳ですけれども、4時から始まるとこう言う。まぁいくらちっとどん遅れたっちゃ構わんと。
最後なるほど良いがあると言われるから、遅れてもまぁ構わんと思ってゆっくり見せてもろうて、着かせて頂いたのがきちっとやっぱし四時だった、しかしまぁ四時に本当に間に合うてよかったので、神様の働きっちゃこんなもんだろうかと思った、私共があのう遅いもんですから、表でそのう待って頂いとったんです、そしたらもうこのおっせがっせの時にきともらわにゃならん、と思いよったところが、ちょうど入り口が入ってしもうて、切れとるところに私共がいったから。
まぁ丁度良かったと言うて、まぁそのおっせがっせせんなり入らせて頂いて席についた。真っ暗だった、そしてなかなかじょうず、もう一番初めからとても、こげな素晴らしい上手な人があるだろうかと思うぐらいに素晴らしい舞でした。ようと見よったらどうも松六さんによう似とるですもん、それからあの私が目が薄いもんだから、あのメガネを持っていってましたから、松六さんですもん、どうしたどうして昭六さんが一番口舞うじゃろかと私が思うておった所が。
今日の主催のお師匠さんの、昨日は還暦のお祝いのための会だった、だから一番初めにお祝いに舞われた、午前中の場合は最後だったそうですけれども、私共が行った午後の部は一番初めに、だからこれを目当てに、私共がちょっとなら何分かでも遅れていっとったら、せっかくの松六さんはもう見られん、それに一幕でしたから、はぁ神様の御都合っちゃ恐れ入るのうち言うて見せて頂きました。
それはもう本当に、もうこれ一つで帰ろうかち帰ったっちゃよかち言う位に素晴らしかったですよやっぱ。そしてもうあちらでまぁ色々とまぁ私が行っとるのでもう楽屋からなにから、こうずうっと見せて頂いて、もうそれこそ堪能させて頂いて夕べ遅うに帰って来たんですけれども。もう何からかにまで置いたものを取る様な、働きの中におかげを頂いて帰って来た。これはまぁ昨日だけの事じゃ何時もがこの通りなんだ。
そればってんほんにこのあのう、あそこんにきちょっと時間ば遅れとったなら、あんたせっかく松六さんば見げいっとって、昭六さんが見られない程だった、というてまぁ話た事でしたけれどもね。そういういうならね、信心をすれば、はぁ芝居も見られん、踊りも見られんちう様な事じゃ絶対ない事が分かるでしょうが、堪能させて頂く事が堪能する、それを自分勝手にしとるからおかげにならんと。
それこそ成り行きを尊ぶ大事にすると言う事はです、それこそまぁ是はそれになり嫌だと言う事もあるけれども。それを神様の御神意として受け止めさせて頂く所にです、その向こうにはもうそれこそ、夢にも思わなかったおかげが流れてきよる。そして昨日は田主丸の共励会でしたから、文男先生がこちらへ来る事になってましたから、文男先生がお迎えを受け持ってくれましたから、文男先生の車で昨日帰らせて頂いた。
だからねそういう、もう罰を当てるとかそう言う事じゃなくて、おかげを神様がやろうごしてやろうごして答えんでござる神様なんですよこの神様はね。だからその下さろうとされる神様でも、私共が受け物を作らなければ頂けんのです。でその受け物がくるというのがどういう受け物かというと。有り難く頂いて帰れば船にも車にも積めぬほどの物を、頂く事の為に信心精進なさらなければいけないと言う事です。
そして今昨日のミニ御理解を読ませて頂いたようにです、それにはまず私共が、障子一重がままならぬ人の身であるという自覚に立つと言う事、これはまだ自分で出来る、自分のよかごつと言う所にです、狂うてくるものがあるじゃないでしょうか、言う事を右左にする様な事に結果になるじゃないでしょうか。せっかく合楽に御縁を頂いたのですから、神の言う事をしっかり頂いて。それを全部覚えて帰らならんと言う事じゃない。はぁ今日の御理解はここだったと言う所だけでも良いから頂いて帰って。
その日一日のいうならば修行とさせて貰わなければいけない。それを日にち通ってくる内に、それがそれこそ一分一厘づつでもそれが自分の物になる、神様の働きそのものが一分一厘も間違いのない働きと言うものがあっておる中に、私共が生活させて貰う、そして神様のおかげで是が出来、神様のおかげで是が頂けれると言う所に、いよいよ御礼の心と言うものが募って来るばかりである。何故皆んなが神の言う事を途中で落としてしまうかというと、私共がね結局障子一重がままならぬ人の身であると言う。
自覚というものが出来てないと言う事になります。皆なささん、本気で障子一重がままならぬ私共ですから、神様のいうことに、神様の教えて下さる事に、合流する以外にはないのです。そういう生き方を、お互い日々いわゆる学ばせて頂いて、それこそ永遠にあの世この世を通して頂けれるところのおかげ。成り行きを尊び受ける生き方を学びて永久の命とはせん、学びて永久の命、この世あの世を通しての命としなければならないと言うのでございます。
どうぞ。